ラジオ体操が終わり、自宅に帰りしばらくすると朝食の時間だ。朝食を用意するのは、70歳を過ぎたシズヨ。邦春の母にあたる也寸志のお婆ちゃんだ。食卓には野菜を中心とした煮物や、干し大根、豆腐、それに煮干しで作ったお味噌汁に白いごはん。おかずの殆どが裏の畑で採れたものばかり。そんな野菜中心の朝食を、也寸志ははあまり好きではなかった。そのせいもあって食はなかなか進まない。するとお婆ちゃんが「早よ食べんね!ちゃんと食べんから太られんとよ」と、いつも決まってお婆ちゃんから怒られるのは也寸志の役目だった。
そんな食卓を囲むのは、お婆ちゃんと母のイクエ、政勝にいちゃんと邦彦にいちゃん、それに也寸志と5歳下の光久の6人だった。この席にいるはずの一家の大黒柱・邦春の姿はなかった。
邦春は、3年前の秋から、病気を患い、車で30分ほどのところにある小浜の温泉病院に入院中だったのだ。病名は肝臓病。お酒を飲まなかった邦春に病まいが襲ったのは、お菓子の卸業で得意先を回っている途中のことだった。得意先のお店の前で、止めた車からお菓子を降ろそうとしていたところに、後ろから来た車に衝突されて車と車に挟まれてしまった。腰を激しく打たれて入院したところ、よく調べてみると働きすぎが祟ったのか、肝臓がやられていること分かった。一ヶ月ほどの入院で済むのかと思って入院した邦春も、まさか肝臓がやられているとは知る由もなかった。肝臓が機能しなくなった体は、精力的に働いていた頃のガッシリとした体からは想像もつかないほどで、黄疸が進行したり、腹水が溜まったり、日に日にやせ細って行く姿が痛々しくも感じられた。
毎月一回、第三日曜日になると、イクエに手を引かれて、末っ子の光久と3人で、邦春の入院先の病院に見舞いに行く。イクエは、いつもお店に立っているので、薄く化粧はしているものの、着ているるものはいつも決まっていて白い割烹着だった。ただ、自分の夫の見舞いに行く時だけは、花柄のワンピースに着替え、髪を整え、口紅を差し、結婚してすぐの頃に父からプレゼントしてもらったという茶色のバックを大事そうにして忘れることはなかった。もう一つの手にはは風呂敷包み。その中には、邦春に食べさせようと思って、昨日の夜、店じまいをした後にに作った手料理が入っていた。この日は、裏の畑で採れたジャガイモの煮っころがしと大好きなきんぴらごぼう。殆ど喉を通ることが出来ないことを知っていても、イクエは作ることを辞めることはなかった。
支度を済ませ、イクエと末っ子の光久と3人でバス停に向かう。外に出ると、熱い日差しが照りつける。すぐに体に汗がにじみ出るのを感じた。今日もやっぱり暑そうだ。光久と手をつないで、自宅から歩いて8分ぐらいのところにある国道251号線沿いの野田バス停に向かう。バス停に到着すると、国道251号線のアスファルトから蜃気楼のような熱風が舞い上がっているのがうっすらと見える。也寸志は思わず息を飲み込んだ。しばらくして、濃い青色と白色の横じま模様の県営バスが停留所に止まった。バスが近づくと、さらに気持ちの悪い熱風が体中を包み込んだ。光久の手を引きながらバスにゆっくりと乗り込む。これから海岸沿いをバスに揺られて約40分、父・邦春が入院中の小浜温泉病院まで見舞いに向かう。座る席は決まって一番前。そこに座りなるべく外の景色を眺めながら他のことを考えるフリをする。車酔いを回避するために小さいながら覚えた技だった。白波が立つ綺麗な海を、太陽が照らして眩しい海岸沿いを走り、南串山のゆるやかな山道を登り、北串山の小さな漁港を見下ろし、県営バスはひたすら東へと向かった。小浜警察署を越えると、間も無く温泉病院前に到着する。病院は海岸沿いから少し入った高台にあり橘湾を一望できる。也寸志は、病院に行くのはあまり苦ではなかったが、乗り合いバスに揺られて行くと車酔いしてしまうので、第三日曜日が来るのがとても嫌いでしょうがなかった。
しかし、まだ小さい弟の光久が一緒だったので、病室に入ると、同じ病室やまわりの病室の入院患者さんたちや家族の人たちかが、いろんな飲み物やおせんべいやビスケットなどのお菓子を持って来てくれる。加津佐の自宅に戻れば、売るほどのお菓子や飲み物があるのに、そんな気遣いをしてくれる皆さんの気持ちをとても嬉しく感じていた。
イクエは、病院に着くと看護婦さんたちや診察に来た人たちに頭を下げ、笑顔で挨拶を交わしながら、邦春が入院している病室へと進んで行く。病室は3階の302号室だ。邦春が寝ているベッドの前に着くと、より一層の笑顔で「調子はどがんね?」と、声を掛ける。邦春は、申し訳なさそな顔をしながら「あんまり変わらんねー」と力のないしゃがれ声で答える。顔色は悪く、黒黄色で、体は先月よりも痩せ細り、目だけがクルリとしていて異様に見えた。
到着した時間は、ちょうど病院の昼御飯が済んだ12時30分ころだった。病院の昼御飯には殆ど手をつけていない。ベットの横に手をつけないままそのまま置いてあった。イクエは、「もうよかね」といいながら、昼御飯の食器を下げて、廊下にある食器置き場に持って行った。戻ってきてから、自分が昨日の夜に作って持って来たジャガイモの煮っころがしと、きんぴらごぼうを取り出し、割り箸とともに差し出した。割り箸を割って、ジャガイモを挟んで口元に差し出してみるが、ひと舐めしただけで口の中に入れようととはしない。きっと口の中にはもう入らないのだろう。せっかく作って来たイクエに申し訳なかったのだろうか、枯れた小さな声で「やっぱ、病院のおかずより美味しかねー」と、呟いた。イクエはそれが嬉しかったのか、うっすらと笑顔で微笑み返したが、目には涙が溢れているように見えたのを也寸志は見逃さなかった。
それから約1時間、特に何も話さないまま、ベッドの脇の硬いパイプ椅子に、光久と二人お尻を半分ずつ乗せて糸取をしながら腰掛けていた。光久もさすがに飽きてきた様子で、それを察知したイクエが「そろそろ戻ろうか?」と、久しぶりに声をかけた。邦春はいつの間にかベッドに横たわり微かな息づかいで眠っていた。イクエは帰り支度を済ませ、邦春の手を握りしめて「また来いけんね!」とだけ声を掛けたが、邦春は眠ったままで何も返すことはなかった。
つづく
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