シュガーちゃんから折り返しの電話があったのは翌日のことだった。
いつもの明るい声で「昨日の件ですが、来週の金曜日、渋谷桜丘の“喫茶ルノアール”で13時待ち合わせでお願いします」
「”ルノアール”って、桜丘にあったかなー。ちょっと場所が思いつかないけど、検索して探してみるね」
「確か、階段を登って2階に入り口があったと思います。分からなかったら電話してください。その杏里の元旦那と、その男性のお姉さんが来ます」
「お姉さんが来るの?」
「そのお姉さんが、私のママ友なんです」
「なるほど・・・了解。じゃ、来週の金曜日の13時だね」
「はい、よろしくお願いします」
改めて”岸田健”と打ち込み検索してみると・・・こんな内容の記事でてきた、”女性シンガーソングライターの杏里が、世界的にも著名なフュージョン・ギタリストのリー。リトナーとの婚約を破棄した時の記事に関するものだった”。
杏里(本名:川嶋栄子)は神奈川県大和市出身、1961年8月31日生まれ。1978年に尾崎亜美作詞・作曲の「オリビアを聴きながら」で歌手デビュー、1983年にはアニメ主題歌の「CAT'S EYE」が130万枚の大ヒットとなった。1988年6月にはファッションデザイナー山本寛斎の甥で当時アパレル会社社長だった岸田健氏と結婚するも1993年9月に離婚が成立している。ギタリストのリー・リトナー
(Lee Ritenour)とは2005年に婚約発表していたが、なかなか結婚には至らず2007年にも破局が報じられたこともあった。結婚の決断をしないリトナーに杏里が業を煮やしたとも伝えられている。
というもの。
”岸田健”という人物は、杏里と結婚した時には、アパレル会社の社長だったのか、それで杏里も騙されてしまったのだろうか・・・。
まー、いろんなことがネット上に書き込まれている”岸田健”という人物。しかし、来週の金曜日、目の前に現れる”岸田健”という人物がどんな人でどんな人間なのか、不安も過ったが、今の浩一には岸田健と会う日が楽しみだったことは間違いないなかった・・・。
5月22日金曜日の当日。智は、自宅で少し早い昼食を済ませて、ラコステの長袖ポロシャツの上に、日本製のバーバリーブラックレーベルのブルーのジャケットを羽織り自宅を出た。3階建の剥き出しのコンクリート造りの賃貸マンションのドアを開けると、初夏を感じさせるような草木の匂いが鼻先をくすぐった。まだ汗ばむ暑さもでもなく、雲の隙間から太陽が恥ずかしそうに顔を覗かせていた。最寄り駅の田園都市線の藤が丘駅までは歩いて3分。駅までの道のりの途中にある藤が丘駅前公園の鮮やかな緑色の木々が輝いて見えた。ここ藤が丘駅は、一つ先に急行停車駅の青葉台駅があり、なんとなく時代に取り残されたようなひっそりとした街並みだ。そんな時代に取り残されたような街が、智は気に入り、離婚した年の10月からここでひっそりと一人暮らしを始めていた。
藤が丘駅前公園を抜け、ファミリーマートの前の信号のある交差点を渡り、藤が丘駅に向かう。2階建ての藤が丘駅は、田園都市線の駅の中でも静かな控えめの建物で、階段を登った2階に線路が通っていた。1階には、最近花屋さんからどこにでもあるチェー店のパン屋さんに代わった店内が賑わっていた。藤が丘駅の改札を抜け、手前にある上り車線のホームまで階段をのぼる。ここの駅は、まだエスカレーターが設置されていない田園都市線では珍しい駅だった。階段を登りきり、しばらくして、10両編成の押上行きのシルバーボディーの電車が入って来た。時間は、12時を7分ほど過ぎた時間。この電車に乗ると、あざみ野駅で急行に乗り換えて、12時40分に渋谷駅に到着する予定だ。
平日の上り田園都市線各駅停車は空いていた。7号車に乗車して空いている席に座り、iPhone5で時間を確認する。十分待ち合わせの13時には間に合う時間だ。電車が動き出し、田園都市線の車内からは田園風景が広がり、しばらくしてから鶴見川の陸橋を渡る。車内では、黄色い帽子を被った幼稚園らしき子供たちが楽しそうにはしゃいでいた。平日の昼間の田園都市線の車内は、いつもと変わらない、こんな平和な時間が流れて行く。
市が尾駅を過ぎて、江田駅、そしてあざみ野駅で急行乗り換える。あざみ野駅のホームには、数人の乗客がこの電車の到着を待っていた。電車のドアげ開くのを待ち、降車する。そして、始めて会ったであろう3人の急行待ちにの乗客の後ろに何もなかったように無言で並ぶ。東京の大田区の木造のアパートから、長男が小学校に入学、長女が幼稚園に入るタイミングで、たまプラーザ駅から徒歩で20分ぐらいに立つ新築マンションを購入してから、約20年近くこの沿線上に住んでいるが、同じ電車で知り合いに会うことなど滅多にない。田舎の人から見ると不思議に思うかもしれないが、それが都会というもの。それにいちいち他人に気にしていたら滅入ってしまうだろう・・・それが都会に住む人たちの無言の約束事なのかも知れない。
しばらくして、押上行き急行電車が滑るように入って来る。電車のドアが開き、降車する人が途切れて特に決まった合図もなく無言で乗り込む。平日の登り急行電車は流石に空席は見当たらない。網棚にカバンを乗せて、吊革に手を掛けた。iPhone5のイヤホンからは、明るい午後の陽射しにピッタリな、ラブちゃんの明るい声がボクの逸る気持ちを抑えてくれた。
つづく
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